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東月寒のおいたち

位置・地勢

〔東月寒〕
札幌市の南東に位置し、北海道農業研究センター、国道36号線以北、東北通(旧村界通)以南、月寒川以東、吉田川以西にはさまれた地域です。
地形は、第三紀末期から第四紀洪積世までに及ぶ現在支笏湖の位置にあった古支笏火山の噴火により放出された火山灰堆積層のなだらかな台地を月寒川、ラウネナイ川、吉田川などの侵食により平坦な、また急な丘陵のある南高北低の傾斜台地を形成している。

地名

〔札幌〕
サツは乾燥の意、ポロは広い広野の意で、乾いた広野と言う意味のアイヌ語。
〔豊平〕
原名をトエピラと称し、つぶれたガケの意。豊平河岸の侵食による岩石露出の状態から出た名。
〔月寒〕
つきさっぷ、昭和19年字名改正で「つきさむ」になる。アイヌ語のチキサフ、チキシャフ「火をするところ」から来ているといわれている。
〔月寒川〕
西岡水源地から、月寒台地を北流して東月寒橋の手前でラウネナイ川と合流し、白石大谷地を経て米里で豊平川に流入している。全長16.2㎞で水清く上水道水源として、月寒歩兵25連隊が軍用として、明治41・42年にかけて造成し戦前・戦後を通じ月寒水道として、軍隊や一般家庭に給水してきた。昭和47年豊平峡ダムの完成により、現在は西岡公園になっている。
〔ラウネナイ川〕
北海道農業研究センター内を貫流する小川ラウネナイ川はアイヌ語の深い川の意を有している。地質調査、原始民族の遺跡調査によると、昔は大きな川であったと推察され、原始民族の遺物(石器・縄文土器等)が河辺より20mも離れた右岸に多く散布するのをみても大河であったと思われる。
月寒川・ラウネナイ川は春の雪解け、また大雨による川の氾濫・蛇行による浅瀬、深い澱みがあり、ウグイ・フナ・ザリガニ等が生息し、子どもたちの釣り場・プールでもあり良き遊び場でもあった。また、秋には鮭も遡上してきたが、近年宅地化・工場排水等により姿を消していった。

字名の変更

明治2年8月15日「蝦夷地」を「北海道」と改称し、同時に11国86郡とした。ここにはじめて石狩国札幌郡が誕生する。
明治4年盛岡から44戸移住、月寒村と称したが明治35年二級町村制がしかれて月寒・豊平・平岸の三村を一丸とした豊平村が誕生し、札幌郡豊平村大字月寒村となる。豊平村は6年後の明治40年4月1日一級町村制がしかれ、豊平町と改称し、豊平町大字月寒村(つきさっぷむら)となる。
〔東月寒〕
月寒村字北通り二里塚・厚別・下野幌・月寒川、アラオ川沿・北裏と称した地域。
明治35年より、札幌郡豊平町大字月寒村二里塚・大字月寒村北通と称したが、のちに北通は字東北通(ひがしきたどおり)と西北通(現在の月寒4区5区)に行政区分された。
昭和19年12月1日土地の名称及び地番を変更、札幌郡豊平町字八紘と改め(東北通を八紘第一、八紘学院を八紘第二、二里塚を八紘第三に区分)、さらに終戦後の昭和22年6月1日字名を字東月寒(一区・二区・三区)と改称された。月寒の東方に位置していることによって生じた字名といわれる。
二里塚は、開拓史が現在の国道36号線を札幌の道路起点(創成川と南1条の交差点・創成橋)より二里(8㎞)の地点として名付けられたといわれている。
昭和55年1月28日住居表示変更により東月寒番地から月寒東条丁目に変更となった。

道路の変遷

〔千歳越〕
札幌街道、室蘭街道の前身。石狩から石狩川、千歳川を船でさかのぼって、千歳・美々間の道路を通り、美々川をまた船で勇払に至る通路は、古くから東西エゾ地の連絡路として利用されてきたが、水路の往来は労多く、かつ冬期間は河水氷結して交通途絶の状態であった。
安政4年(1857年)箱館奉行は銭函から発寒・札幌・豊平を経て千歳に至る道路開削の儀を幕府に提出して決裁を得、松浦武四郎をしてこの通路を踏破させ、銭函-星置、星置以東島松、島松-千歳間の開削に着工し、同年これを完工し、「札幌越」とか「千歳越」とか呼ばれた。また、同時に札幌に土着和人第一号といわれる志村鉄一、吉田茂八を豊平川の渡し守として任命した。
〔国道36号線〕
明治5年開拓史ケプロンの指導によって札幌-千歳間の改修大工事が行われた。3月に着工して6月には完成させるという突貫工事で、「札幌本道」と呼ばれたが、風の吹く日は砂塵が渦巻き、大雨の時や雪解け期には馬車の車輪までぬかるところも多かった。
昭和26年豊平町は月寒街道舗装を建設省に請願し、一級国道36号線(弾丸道路)札幌-千歳間34.55㎞の舗装が、昭和28年11月開通した。
〔東北通〕
旧村界道路(豊平村と白石村の界)。開拓史が明治19年に開削した道路で、豊平より月寒を経て黒澤牧場の急坂を下がったあたりまでで、東北通の交差点より左折、黒澤牧場の草地内を通り大谷地用水路(国道12号線より大谷地小学校前から北野の光円寺方面に通ずる道)の大谷地駅前あたりに交差していた。湿地であるため馬車の通行には困難をきわめた。東北通農事実行組合員及び付近の住民等で、たびたび火山灰・砂利等を入れ道普請を行い、昭和31年石丸信雄実行組合長の働きにより、黒澤・山田両氏より道路用地の寄付を受け、町役場より農閑期補助金を受け部落民奉仕による道路改修工事を施工、現在の直線道路となった。
昭和34年村界通り東月寒橋手前まで、中央バス北野線が開通したが、東月寒橋~東月寒5号線間の村界通りは道幅狭隘にて、バス運行に支障をきたすため、昭和35年向島正治実行組合長は、町役場と15万円で工事契約。町より測量・ブル・砕石の支援を受け、白石側の清水・長井・白井氏及び実行組合員の協力により、道路拡幅工事を完工した。
昭和38年5号線まで念願の中央バス東北通り(ひがしきたどおり)行きが運行となり、村界道路が東北通(とうほくどおり)と呼ばれるようになった。
〔東月寒1号線〕
昭和34年頃までは、国道36号線より加茂川さんあたりまでしか道はなく、大谷地駅に行くには田のあぜ道伝いに行くか、黒澤牧場の草地と雑木林の境を通って村界通りに出て行った。
二里塚部落会長吉本又一ほか部落民全員の奉仕により、砂利敷き・地ならしと毎年道普請が行われた。
昭和35年八十嶋熊蔵、山本義久が町役場に村界通りまでの開削を願出。特に黒澤和雄・山田源之助両氏より道路用地の寄付を受け、また関係地主の用地寄付を受け実行組合員の労力奉仕を得て、雑木林の伐採、盛土、地ならし等工事に着手、昭和36年札幌市との合併により、市よりブルドーザーの援助を受け、運転手は山田源太郎宅に寝泊りしていただき、道路拡幅と村界通りまでの直線工事を完了した。
〔東月寒5号線〕
向ヶ丘通。開拓当初国道より村界通には吉田牧場の放牧路(現八紘学園ジンギスカン道路)からラウネナイ川の中を馬車で、人は丸太橋を渡り右折して現在の変電所北側辺りから黒澤牧場前を経て村界通に出た。
大正年間に今の直線道路となったが、五間幅の道で、悪路のため部落民がラウネナイ川、厚別川より砂利を運び、道路補修を年中行事としてきた。特に北酸の坂は切割りの急坂路で、秋の農産物の出荷には坂下で荷を分け、坂上に荷上げした。また、冬期には地吹雪のため切割りの上まで平らになり、朝一番に牛乳を運ぶ黒澤牧場が、裸馬を先に通し道付けをしてから馬橇を通した。昭和42年国道36号線より東北通まで沿線の地主より、道路用地を札幌市に寄付採納して、五間道路(9.09m)を16mに拡幅され、昭和47年・48年にかけて舗装された。また、東北通橋も度々川の氾濫により流出した。
〔北野通〕
北野通は東月寒5号線(向ヶ丘通)より1号線までの農道であったが、昭和55年に向ヶ丘通以南幅20mに拡幅開通、その後八紘学園理事者の英断により昭和61年学園農場内を分断する北野通が全線開通した。

開 拓

明治4年、開拓史の北辺の守りと開拓のための移民方策に賛同し、南部藩盛岡から44戸185人が月寒村に移住してきた。そのうち6戸はいまの福住に入植したので、六軒村と呼ばれた。
開拓移民には家、農具、なべ、かまを与えられ、耕馬は1頭3円位で払い下げを受け、3年間の扶持をもらった。開墾当時は、くるみ、なら、やちだも、いたや、しな、あさだ等うっそうと茂っていた。それで炭焼きを主業とする者が多く、開墾に従事する者が少なかったので、開墾料1反歩に付金2円を給し、三か年間開墾した土地は地価をとらずに付与した。こうして3年を過ごし扶持が下がらなくなってからは、それぞれの土地を20円とか25円に売って他に離散する者もいた。
〔吉田善太郎〕
月寒組であった吉田善治と共に幼にして父に従い移住した長男善太郎は、明治14年父没後、二里塚、北通、月寒と白石村との両村に跨る大谷地の未開墾地の開拓を出願し、23万坪の払い下げを受け、明治17年月寒北通に入地。当時昼なお暗い原始林を開墾、厚別川の上流より灌水溝を掘鑿して水田100ha、畑60haを懇成し、多数の小作人を入地、一村落を成した。また自ら牧場も経営した。(大正2年の資料によると牧場面積は約56ha、牛61頭、馬10頭とある。)また公共に力を努め、多年月寒村総代人、学務委員、村会議員、また明治30年より初代月寒郵便局長等を務め、殊に明治29年第七師団が設置され、歩兵第25聯隊の新設に際し、自ら兵営用地の寄付を申し出、連隊誘致に奔走尽力する等、旧豊平町の開発功労者である。
大正5年善太郎没その後子息善助が相続、大正10年頃社台に土地を求め馬の飼育をはじめた。現在の社台牧場である。(吉田牧場跡は現八紘学園、さっぽろ・ふるさと文化百選指定の現八紘学園、栗林記念館は吉田善太郎の旧別宅、南側向かいのサイロと畜舎も吉田時代のもの。)
〔稲田儀平〕
二里塚の開拓は自由移民として明治10年に入地した稲田儀平にはじまる。儀平は江戸幕府に仕え、明治維新の際官軍と最後まで戦い、五稜郭戦争に敗れ、船で根室に逃れたのが明治2年といわれている。
明治4年札幌に来てその後明治10年に今の札幌ドームのあたりに入植し、国道の向かい側(羊丘小学校から産業技術総合研究所の附近)の土地を所有し農耕に従事した。稲田の姓は、函館から逃れたため名乗った姓といわれる。
人の面倒見もよく、村の政治に参与する代表者で、選挙による村総代人というのがあったが、明治23年に月寒村総代人として稲田儀平の名がある。明治14年、明治天皇行幸にあたって、二里塚御駐輦の際にはお迎えした一人で、昭和2年に86歳で世を去った。
〔嵯峨半蔵〕
嵯峨家は京都からおちのびて岩手県久慈に270年間住み、半蔵は明治4年に札幌に移住し、石狩より鮭を買い馬の背に積み、6日がかりで室蘭に行き米と交換し、その米を販売する。開拓史の勧めで官営の遊女屋を開業し経営していたが、遊女屋が嫌になり、料亭を南5条西2丁目に開業し、春駒屋と称して繁盛した。明治19年頃より二里塚、今の日糧パンの辺りから北野に跨る63町歩に及ぶ土地を買受け、その後牧場を設けた。
明治末期、豪州から競走馬サラブレッド種を買入れ、大正元年頃には馬32頭を飼育、乳牛はホルスタイン種100頭を飼育し、札幌の料亭から二里塚の牧場まで、道産子に跨って通ったという。
明治14年には明治天皇本道行幸の砌、御野立所とした場所に自費で、台座二間四方の記念碑を建立する。
昭和5年頃事情により土地は北海道拓殖銀行(現北洋銀行)に移り、昭和6年には全道一のゴルフ場が誕生した。

開拓第二期

明治6年に開通した室蘭街道は、明治14年明治天皇の北海道巡幸の際大改修され、交通の便もよくなった。月寒には岩手、広島、石川、福井、富山、新潟県当から、自由移民が相次ぎ開拓の鍬が入れられ、原始林はあちこちで広い耕地となっていった。
明治11年には月寒に私塾が開かれ、明治15年には月寒小学校が創立され、また明治17年には月寒神社が、福住寺も明治35年に建立されるに至った。
明治29年に月寒に兵営が建てられるようになって、その建設のため労務者が多数入り、これにともなって商人、農家として定住する者も増加してきた。
〔二里塚〕
明治30年代には、吉田善太郎より有田京作、井谷妻六、浅野万吉、奥村治太郎等が土地を買受け、農業経営を営むようになった。
二里塚が集落を形成したのは、明治39年創立された農商務省種畜牧場の影響が大きい。一千町歩を超す広大な土地に開拓の鍬が入れられ、事務所、畜舎等の建設に多くの労務者が必要となり、また牧場で働く人々も増えて、月寒の中心地に次ぐ集落として繁栄するようになった。戸数50戸にも及び土建請負造材業の栗虫市次郎、商店としては有田商店、向島粂之助は商店と土木建築請負業を兼業した。
当時商店は食品、乾物、菓子、荒物雑貨、呉服まで扱ったという。
農家では浅野、井谷、有田、奥村等がおり、本間鹿蔵は25連隊の御用商人で、薪、木炭、燕麦等を納めていた。小林、木下、大内、楠本、斎藤、小野、斎田、土池、君塚、岩下等雑穀商、飲食店、各種職人が集まり、また三里塚、厚別(あしりべつ)方面より月寒、札幌に行き帰りの荷馬車の休憩所として活況を呈していたという。その後農家では牧野、中道、安宅等が入地した。
昭和初期には山田源太郎、吉本又一、加茂川金造、赤塚清三郎が入地、30年代に入り八十嶋熊蔵が入地している。
〔北通〕(東北通)
明治17年吉田善太郎が入植、明治20年に豊川与助が入植その後水野惣四郎、岩泉九兵衛太、小玉喜蔵、明治30年代には谷、家山、山本、坂田、大久保、北村、佐伯、郷頭延一、出野、明治40年代には石丸多三郎、岡田瀬淵、浦、大正時代には長井庄蔵、青野繁造、山本千代吉、榊、田辺大四郎が入植した。
開拓当初は鋸と鍬を頼りに樹木を切り炭焼き、焼き畑を作り、菜種、小麦、蕎麦麦、小豆等作物を作り、また主食になるべき米作に適する土地が少ないために大谷地、白石方面に水田を求め、出作りをしていた。また冬には足に赤ケット(布)を巻き、つまごを履いてかく(材木)出しの出稼ぎをした。
昭和初期には向島粂之助が二里塚より移転、果樹園及び乳牛の飼育をし、西川留吉は西通(福住)より入地、果樹園を経営した。
木村辮三郎は宮城農学校獣医科を卒業渡道後上白石(菊水南町3丁目)で牧場を経営、大正8年アメリカに留学、酪農を学び、牡牛3頭、牝牛12頭を買求め帰国した。昭和2年東北通に19haの土地を買入れ、牧場を移転し、昭和10年頃には70頭に及んだ。没後長男利彦は都市化により十勝・千歳に牧場の本拠を移し、酪農発展に努力している。(木村牧場跡は現在のしんたく団地)
黒澤和雄は札幌市南14条西15丁目、兄酉蔵の許にて牧場を経営していたが、都市化の進展により東北通吉田善三所有の農場の一部、山林共に31haを購入。山鼻より牛舎サイロを東北通に移し、昭和8年入地した。当地は吉田牧場の山林及び放牧地で、大木の切り株や、千歳線沿いにはカシワの大木が密生していたという。
早速開墾に着手、土地を改良し肥沃な耕地とした。またアメリカより優秀な牡牛を購入し、乳質改善に努力した。昭和40年都市化と酪農公害等を考え、牧場を開放。千歳に93haの土地を買求め、最新式牛舎を建築し、昭和45年完全移転した。(旧農場は現白樺会館周辺より大谷地生協あたりまで)
黒澤牧場の牛舎・サイロ及び跡地を当時東月寒一区町内会連合会長であった黒澤和雄氏に寄付をいただき、白樺会館建設協賛会を設立、協賛会長石丸米一、建設委員長越智勝が就任、東月寒一区実行組合・町内会の寄付金及び札幌市の補助金により、昭和47年4月着工同年11月改修工事を完了した。会館は地区の集会場として、また牛の放牧場であった白樺林は環境庁の緑地保全地区として、憩いの場になっている。昭和10年代には渡辺藤造、岩本音八、越智勝、藤戸、高橋浪夫、長井又造が、昭和20年代には内山文三、岩本良二、石丸信雄が入地している。
〔八紘学園〕
学園創立者栗林元二郎は、自耕自拓、自他協調、農業報国の精神を以て内外の拓殖事業に従い、荒蕪を拓きて産を興し、子孫安住の新天地を建設せんと欲する青年の育成を目的として、昭和8年吉田農場の跡地、西通・東北通に跨る土地113haを購入、財団法人八紘学園を設立、初代総裁斎藤実子爵、理事長財部彪閣下、学院長佐藤昌介男爵が就任農場の実習を本位に、体験教育を以て農業の技術習得にあたり、満州国に八紘村の建設、国内はもとより南米各地においても多くの卒業生が活躍してきた。
昭和51年学校法に基づき、学校法人八紘学園 北海道農業専門学校となる。

団 体

〔農会〕
明治維新を区切りとして、幕藩封建制度の支配から農民の解放が始まり、明治5年までに身分制度が撤廃、職業の自由、土地の所有権の確立がなされた。こうした制度改革の中で農民の意識の変革が始まる。明治32年農会法案が公布法制度化され、農業者すべてを会員とし、農業改良発達を図り、総合的農業指導機関として発足した。
明治40年豊平町農会が創立され、初代会長に吉田善太郎、四代会長に向島粂之助が就任している。
昭和18年12月農業団体法施行により、農業組合と共に解散するに至った。
〔北通信用購買販売組合〕
大正7年当時の農産物は売値も安く、ビール麦、ホップはビール会社、燕麦は陸軍に納入するのが一番有利といわれた。組合運動の中心であった石丸多三郎、青野繁造、郷頭延一等が組合員23農民の組織として公的に組合として登記され、組合長に石丸多三郎が就任。資金の積立、生産物の販売、肥料の共同購入等の事業を行ったが、昭和3年存立期間10年満了により解散した。
〔月寒産業組合〕
大正15年の凶作、昭和初期の大凶作と打ち続く農村災害に、農民の窮乏は甚だしく、悲惨な農村事情に豊平町農会もその対策に苦慮し、農村の結束による自助、自立そして組織化の普及に力を努めた。
更に昭和6~7年は再び大凶作に見舞われ、農家は救農土木事業等に出役して生計をつなぐ有り様で町長の松崎亀二、農会長の向島粂之助、牧場主の木村辨三郎等が各部落の主だった人物に働きかけ昭和8年3月、産業組合の設立に至った。
事業区域は豊平村、月寒本通、西北通、東北通、上・下西山、西通、二里塚で、初代組合長向島粂之助、専務に木村辨三郎が就任した。
昭和16年大東亜戦争が起き、経済統制と農業増産の急を迫まれた国は、農業団体の統合促進のため昭和18年3月に農業団体法が成立、農会・産業組合・農事実行組合・畜産組合が統合し、昭和19年2月豊平町農業会が設立された。その後、敗戦により、昭和22年農業協同組合法の公布により、23年1月農業会を解散、豊平東部農業協同組合が設立され、平成元年4月さっぽろ市農協に併合された。
〔二里塚農業実行組合〕
大正6年11月北海道庁が農民は組合事業により福利を増進し、相互の親和を図る目的として、農事改良実行組合の設立を奨励した。昭和元年町農会がこの奨励に当たり、二里塚農事実行組合が発足、農業経営改善、農家家計向上、農村社会改良の事業合理化を図った。
昭和7年産業組合法一部改正により、翌8年2月、法人登記をし、組合理事長に有田京作が就任し、生産物の共同販売、肥料・石炭の共同購入等農家の生産向上に努力した。現在もなお存続し親睦を深めている。
〔東北通(ひがしきたどおり)農事実行組合〕
昭和2年二里塚と同じく東北通農業改良組合が発足、初代組合長石丸多三郎が就任、昭和8年4月東北通農事実行組合として法人登記、青野繁造が初代組長に就任した。事業の主なものは次のとおりである。
1 地力の維持増進を図る
2 品種の改良
3 病害虫駆除の励行
4 農家経済の向上
5 稲作改良
6 農村社会事業の施設
趣旨の病害虫駆除の石造燻蒸室を設けたり、東北通公会堂で林檎の袋張り、保温の糀むろを造り、自家製の味噌を製造する等自給自足をした。
終戦後電気をつけるため黒澤和雄と向島吾市が東京で電線の買付けをし、旧軍の電話柱の払い下げを受け、部落民全員で架線作業を手伝い、石丸宅を工事人夫の宿として工事を進め、昭和21年末、臨時に各戸1灯にて正月を迎え、翌22年に完工した。昭和28年道庁から全道農業機械化、台所改善モデル地区に指定され、農耕用ジープの貸与を受け、機構・消毒等実績をあげた。また台所改善も各戸毎に行い、昭和31年北海道視察中のマッカーサー大使が、道指定の台所改善の見学申出により、当時組合長石丸米一宅を訪問した。
昭和18年農業団体法施行に伴い、産業組合法の廃止により、法人たる農業実行組合も同時に解消した。しかし、実態はそのまま残り、農協の下部組織として、部落自治会の役割も兼ねてきた。現在東月寒白樺会として活動している。
〔月寒果樹組合〕
明治2年開拓史顧問ケプロンが、北海道の気候風土が果樹栽培に適していることを認め、開拓史に建言書を提出、開拓史は明治5年末、米国より多数の果樹類を輸入した。その種類は林檎75種、なし53種、桜桃25種、ぶどう30種、その他あんず、スグリ、いちご等で、苗木の養成を行い、本道各地の移民に無償配布して栽培させ、本道の果樹栽培の基礎を築いた。
月寒出見開拓史により、明治8年から14年まで苗木の無償配布を受けたが、栽培方法を知らなかったため枯死した。
明治17・18年頃には平岸でも多くの果樹園が誕生し、かなりの収入があった。
明治30年には月寒村各所で果樹園が栽培され、当時平岸の山際農園の苗が全道各地に配布普及されていたが、大正末期により東月寒方面にも林檎栽培熱が広まり、果樹耕作者が増加した。
昭和4年月寒、東月寒、福住、西岡、平岡地区の果樹耕作者41名が月寒果樹組合を設立。設立当時の東月寒の組合委員は見越幾之助、西川留吉、有田京作、奥村治太郎、向島粂之助、青野繁造、小玉喜蔵、郷頭正美、井谷妻成で、その他多数加入した。
果樹の剪定仕立、薬剤施肥、地下貯蔵等、技術講習会を開催、昭和27年10月、丸井デパートで第一回札幌りんご祭りが開かれ、以後毎年品評会や即売会で札幌りんごの宣伝と品質向上に努力した。
事業としては、石灰硫黄合剤の生産工場がある。昭和7年増山組合長の発案により、月寒に平鍋露天式にて集団製薬を開始し、昭和10年に月寒川堤防の西川果樹園の一隅に、総工費208円をかけ、工場及び付属設備を完備し、本格的な製薬に着手した。昭和22年旧25連隊の建物の無償払い下げを受け、福住寺横に改良平鍋式製法により120石を製薬、農林省の農薬指定工場に認可された。更に昭和25年ボイラー密閉製薬法による最新式製薬工場に更新、良質な規格合剤をを生産し、組合員も145名に達した。
昭和32年には、東月寒の西川留吉氏が果樹栽培の近代化を提唱、農薬散布の共同防除班を作り、補助金を獲得し、フォードソンのトラクターとユニマウント・スピードプライヤーを購入し、果樹経営の合理化と機械化に貢献した。しかし、押し寄せる住宅化の波と腐乱病、黒星病の蔓延により、月寒果樹組合も昭和40年に解組、以後りんご耕作者も減少した。現在では八紘学園が新種のりんご、ぶどう、プラム等を栽培している。
〔札幌市東北通整地協同組合〕
昭和30年頃より宅地化が始まり、以後部分的に、二二七、みどり、幌見ガ丘と順次宅地開発が行われてきた。
昭和40年東月寒1区の宅地造成につき関係地主が集まり、1区全般の土地測量を行い、都市計画道路に沿って東月寒道路計画図を作成、札幌市の宅地造成等規正法の規格をもとに、地主間の土地交換分合調整・道路・公園用地・防火水槽等を設置、昭和42年、第1次宅地造成工事を施工した。以後年次を追って順次工区を分け、宅造工事が行われ、現在の市街地を形成した。

引用・参考文献

豊平町史、豊平東部農業協同組合30年史、二里塚の百年、平岸百十年、札幌りんご今みかし、越智勝氏編纂東北通90年のあゆみ、月寒果樹組合の生いたち、創立50周年記念八紘学園のあゆみ

(編集者 向島正治)